大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2023 第40号>

浪花百景「両本願寺」


国員(くにかず) 画(大阪城天守閣蔵)


両本願寺

右手に大きく描かれているのは西本願寺北御堂。 石段と周辺には子ども連れ、お年寄り、町人、武士など様々な人々が行き来し、すげ笠をかぶった団体さんを連れている案内人のような姿も見える。左手奥にあるのは、東本願寺南御堂。かつて、今の大阪城付近に蓮如が大坂御坊を建立したが、織田信長との10年に及ぶ石山合戦により、大坂から京都に移った。
その後、豊臣秀吉の時代に大坂に戻り、慶長期 (1596〜1615) に北御堂(浄土真宗本願寺派 本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派 難波別院)を建立。 壮大な堂舎は、江戸時代の市中でも群を抜き、当時のランドマークともなっていたという。
また、いずれも法話や講話が年中催され、多くの人々が訪れ、賑わう場所でもあった。両御堂とも、手前に幅3間の道に面して建っていて、前の通りはいつしか御堂筋と呼ばれるように。
明治維新を経て昭和の時代、道路拡幅により、両御堂の前の道は約44mに拡幅された。大阪の中心部を貫く大動脈の名前は「御堂筋」として今に引き継がれ、親しまれている。


大阪再発KEN記

両本願寺界隈 〜近代から100年先を見据えて〜

明治から大正、昭和へ・・・。近代への歩みを進める大阪。北と南の両御堂界隈にも、歴史の波が押し寄せていた。
まず、鳥羽伏見の戦いでは、征夷大将軍仁和寺嘉彰親王が、津村別院を本営として進軍。 また明治6年(1873)には大阪府病 院が別院に移転。医療の近代化にも寄与することとなった。
明治21年(1888)には相愛女学校 (相愛中学校・高校の前 身)が開学。 その後、大正後期から昭和初頭にかけて、大阪は「大大阪」と呼ばれた。 大阪市は人口・面積・工業出荷額において日本第一位、当時の東京市をしのぐ世界有数の商工都市であり、活気にあふれていた時代である。
第7代大阪市長の關一市長を中心に都市計画が進められ、御堂筋の拡幅工事、大阪市営地下鉄御堂筋線(梅田-心斎橋間)の建設など都市基盤が築かれた。
このうち、梅田から難波までの南北全長約4km、幅44mの御堂筋の道路計画は、当時としては突拍子もなく「飛行場でも作る気か」と揶揄されたこともあったという。
しかし 沿道の受益者負担による整備費の捻出、電線を地下に配置してイチョウ並木を植え、沿道建物の高さ制限(百尺制限)による景観整備は、100年後を見据えた計画。
完成後は、大阪の大動脈としての機能を果たしてきたといえる。前後して開通した地下鉄御堂筋線も、開業時は1両編成での運転だったが、需要の増加に備え、当初からホームは12両編成を見越した長さで建設されたという。

大阪故郷(ふるさと)22 〜戦後の復興、高度成長期を経て両本願寺界隈の現在

昭和20年(1945)、大阪大空襲により、両御堂を始め多くの建物が焼失した。そんな中、戦災を免れたものもあった。堅固なつくりかつ美しい芝川ビル、優雅な意匠が特長の綿業会館などは、レトロビルとして、今なお美しく重厚な存在感を放っている。
難波神社は、社殿は空襲で全焼したものの、ご神木のクスノキは生き残り、今では樹齢400年超。現代のパワースポットとなっている。
やがて両御堂の社殿再建を始め、戦後復興が始まる。その後の高度成長期時代にはビルが次々と建ち、金融機関が多く集積したこともあり、御堂筋は活気のあるビジネスゾーンとなった。
その後バブル崩壊を経て、美しい景観を保ちながらの御堂筋再生への議論も始まった。平成7年(1995)には高さ制限が60mにまで緩和、沿道ビル低層部にカフェやショールームが出店するなど、新たな賑わいが見られるようになった。
今では海外高級スポーツカーやアメリカのEV車(電気自動車)のショールームが目を引く。また、世界的なラグジュアリーブランドのショップも軒を連ねている。
平成21年(2009)には御堂筋イルミネーションを開催。御堂筋の並木がイルミネーションで彩られる美しい風景は大きな反響を呼び、今も多くの人が訪れる。
なお、大阪市では「御堂筋将来ビジョン」を策定、車中心から人中心のストリートへと転換に向けて、一部側道を歩行者空間にする試みが始まり、さらに発展が期待される。

なにわびと

大橋 房太郎(おおはし ふさたろう) 〜淀川治水工事に取り組み、生涯を捧げた「治水翁」〜

かつて「淀川治水の父」と呼ばれた人物がいる。その人、大橋房太郎 は万延元年(1860)、摂津東成郡榎本村放出(現在の鶴見区)で代々庄屋を務める家に生まれた。
明法館(現 関西大学)を卒業後、東京で法律家を目指していたが、明治18年(1885)、淀川大洪水の知らせを受けて帰郷。 被災者27万人超、河内平野のほとんどが水没した惨状を目の当たりにして衝撃を受け、法律家への夢を絶ち、淀川治水工事に取り組むことを決意する。
まず榎本村村長を務め、明治24年(1891)には31歳で大阪府議に当選。その後房太郎は、淀川改修の必要性を国に訴え度々上京し、淀川治水の必要性を熱心に説いた。
明治29年(1896)、ついに淀川を含む河川改修法案が国会で可決。この時、貴族院の傍聴席にいた房太郎は「淀川万歳!」と何度も叫んだという。
この改修工事は、流域全体を見据えたスケールの大きいもので、新淀川の開削のほか毛馬洗堰・瀬田川洗堰等の建設、宇治川の付け替えなど、約14年の歳月をかけて完成。これにより淀川の治水安全度は飛躍的に向上、全国の治水対策にも大きな影響を与えた。
改良工事には土地を手放さなければならない3,000人ともいわれた土地所有者がいたが、これを一人一人説得して回ったのも房太郎であった。
その後も淀川治水会副会長を務め、大正6年(1917)の淀川再氾濫後は淀川再改修規成同盟を結成、堤防工事を継続させるなど、36年間に渡り改修工事に尽力した。
公共事業に私財を投じたため、房太郎は自宅も手放し、借家を転々としたという。
昭和10年(1935)6月30日に没、享年74歳。葬儀は大阪市葬として大阪市中央公会堂で行われた。淀川は、今日も滔々とかつ穏やかに大阪市内を流れている。

大橋 房太郎(おおはし ふさたろう) 〜淀川治水工事に取り組み、生涯を捧げた「治水翁」〜

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