大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2022 第39号>

浪花百景「生玉絵馬堂」


国員(くにかず) 画(大阪城天守閣蔵)


生玉絵馬堂

大阪市天王寺区に鎮座する生國魂神社。第1代・神武天皇ご親祭と伝わる大阪最古の神社で、別名難波大社。
親しみを込めて「いくたまさん」とも呼ばれている。もとは大阪城を含む一帯をご神域としていたが、太閤秀吉の時代、現在の場所に遷座した。神社の西側は上町台地の断崖で、安政年間(1854~1860)には、切り立った崖上に、絵馬堂が設けられた。
国員が描いたように、絵馬堂からは遠く神戸・六甲の山並みや大阪湾、淡路島の眺望まで楽しめたという。 境内には多くの社があり、江戸時代には芝居小屋や茶店が並び、多彩な芸能興行で大いに賑わったという。 近松門左衛門はここを「曽根崎心中」の舞台に仕立てた。
なにわの街と同じくして社殿は度重なる火災・戦災に見舞われてきたが、現在の本殿も桃山いくたまづくり時代独特の建築様式「生國魂造」が継承されている。上方芸能文化の発祥の地として、彦八まつりなどの芸能にまつわる祭りが今も行われ、多くの人で賑わう。
高層ビルやマンションが林立する中にあって、今もなお豊かな緑をたたえる、生玉さんは多くの人に愛され、信仰されている。


大阪再発KEN記

生國魂神社界隈 〜由緒ある社に芸能の華開く〜

天王寺区にある生國魂神社。 正式名称は“いくくにたま” だが、親しみを込めて”いくたまさん” と呼ばれている。
社伝によれば、神武天皇が上町台地の難波碕に国土の平定・安 泰を願い、国土の守護神である生島大神足島大神をお祀りされたのが始まりという。 「日本書紀」には大化元年(645)孝徳天皇即位前紀にも記されており、由緒ある延喜式内大社である。
戦国時代、織田信長の石山合戦の際に焼失し、天正11年(1583)、豊臣秀吉の寄進により現在の場所に遷座したと伝わる。 この時、本殿は本殿と幣殿を一つの流造で葺きおろし、正面に千鳥破風、すがり唐破風、千鳥破風の3つの破風を据えた、神社建築史上例のない「生國魂造」様式を用いたという。19世紀に大坂で活躍した戯作者・暁鐘成の「浪華の賑ひ」には、「石鳥居は谷町の辻にあり。祭神生魂命大国主命なり。
本地堂の本尊は薬師如来にして、聖徳太子の御作と聞こゆ。大師堂は本地堂の左に並ぶ。歓喜天の宮は北の方にあり、近世本社の後辺に舞台を建営ありて、瞻望(眺め)ひとしほによし」と記されている。
上町台地の断崖である西側には絵馬堂が作られ、大阪 湾から六甲山系まで見渡せたという。西鶴の俳諧興行、近松の「生玉心中」など文芸とのつながりも深い土地で、 江戸時代の庶民にとってはお詣りして芸能も楽しめる格好のスポットだったに違いない。

大阪故郷(ふるさと)21 〜苦難を乗り越え、生國魂神社は今も人の心に

ここでは、昭和から令和の現代に至るまでの川崎界隈を紹介していきたい。造幣局の工場では、現在も貨幣の製造をしているが、キャッシュレス化の昨昭和20年(1945)、第二次世界大戦の空襲で生國魂神社の社殿は消失。
その後本殿を再建したが、翌年のジェーン台風で再び倒壊。昭和31年(1956)、現在の本殿に建て替えられた。
度重なる災厄を乗り越えての本殿再建は、戦後 復興の象徴ともなった。この社殿再建を寿ぎ、能が奉納されたのが大きな反響を呼び、翌昭和32年(1957)から定例化されるようになった。これが「大阪薪能」である。
毎年8月 11・12日には境内に特設の能舞台をしつらえ、雅やかな薪能が行われ、多くの人が観覧に訪れる。 生國魂神社は、他にも4月11日に家造祖神社の「例祭」、6月30日に厄災・病を払う「大祓式」、7月11・12日に「いくたま夏祭」、9月の第1日曜日と前日に開催される「彦八まつり」など、多彩な祭りが四季折々に行われている。
このうち「いくたま夏祭」は、大阪三大祭の一つながら戦後は中断を余儀なくされたが、地域住民が立ち上がり、地域の祭として伝統を受け継ぎ、今日に至る。
また上方落語の祖・米澤彦八にちなんだ「彦八まつり」は、平成2年(1990)に「彦八の碑」を建立した翌年から開催。上方落語家が一堂に会し、賑やかに行われている。
地域住民、芸能関係など、多くの人々に親しまれてきた生國魂神社。境内には浄瑠璃神社や井原西鶴や織田作之助の銅像、米沢彦八の記念碑などが並び、今日も多くの人が「いくたまさん」に足を運んでいる。
※コロナ禍のため、令和2~3年 (2020~2021年) の 「大阪薪能」、「彦八まつり」は中止となりました。

なにわびと

川端 康成(かわばた やすなり) 〜命の儚さを知り文学に情熱を注いだ作家〜

「伊豆の踊子」「雪国」など多数の叙情的な小説を書き、日本人初のノーベル文学賞を受賞したのが川端康成である。
明治32年(1899)、康成は大阪市北区此花町(現在の天神橋)に、開業医の父の長男として生まれた。 父は肺を患って康成が2歳になる前に他界。母も同じ病で一年後に亡くなり、茨木市に住む父方の祖父母に引き取られた。 病弱だった康成は、小学校も休みがちだったが、幼い頃から作文などに才能を発揮する。
7歳で祖母を失うも、中学入学後は片道5キロの道のりを徒歩通学、次第に健康になる。 大正3年(1914)15歳の時、ただ一人の肉親だった祖父を亡くし、天涯孤独の身となる。
肉親との縁薄い生い立ちは、その後の人生や文学にも深く影を落とすことになる。
中学での寄宿舎生活を経て、康成は従兄弟を頼って上京、21歳で東京帝国文学部英文科に入学した。この頃、作家であり文藝春秋社を創設した菊池寛と出会い、文学に没頭していく。22歳で同級生らと同人雑誌『新思 潮』を発行、執筆活動に専念する。
大学卒業後は『文芸時代』を創刊。かつての旅行での体験を元に28歳で執筆した「伊 豆の踊り子」で、作家としての地位を確立した。
その後も浅草の人々を抒情的に描き、浅草ブームを引き起こした「浅草紅団」を始め「禽獣」「海の火祭り」「雪国」など多くの作品を発表する。 日本ペンクラブでは長く会長を務めた昭和23~40年(1948~65)ほか、45歳で菊池寛賞、昭和43年(1968)、69歳でノーベル文学賞を受賞した。
その3年後、昭和47年(1972)4月に亡くなる。 享年72歳であった。
大阪を舞台にした作品としては戦後発表された「反橋」があり、「しぐれ」「住吉」とともに三部作とされる。 住吉大社内には川端康成の文学碑が、大阪天満宮の表門から少し東には「川端康成生誕の地」の石碑がある。

藤川端 康成(かわばた やすなり) 〜命の儚さを知り文学に情熱を注いだ作家〜

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