大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2021 第38号>

浪花百景「川崎ノ渡シ月見景」


芳雪(よしゆき) 画(大阪城天守閣蔵)


錦城の馬場

今日、大阪造幣局のある一帯は、江戸の頃には川崎村と呼ばれ、幕府の材木蔵や米蔵、城代屋敷、蔵屋敷が建ち並ぶ地域であった。大川をはさんで対岸の備前島(現在の網島町の一部)は、鯰江川に架かる備前島橋、さらに寝屋川に架かる京橋を経て、京・大和に向かう街道に通じていたという。
一方の川崎には幕府の材木蔵や城代や配下の役人宅、諸藩の蔵屋敷が並んでいた。橋のない川崎-備前島の2つの岸を結ぶのが川崎の渡し(渡し船)で、元禄年間にはすでに存在していたらしい。
この辺りには過書船、伏見船が往来し、四季折々には涼み船、月見船などでたいそう賑わったという。船からは京街道沿いの松林、その向こうに大坂城を臨むことができる。松の向こうに天下の大坂城、空には満月・・・と情趣も満点。月見船からはにぎやかな話し声さえ聞こえてきそうだ。
渡しに替わり、明治10年(1877)には私設の木橋が架けられたが、大洪水により流失。昭和53年(1978)には歩行者専用の川崎橋が架けられ、市民に利用されている。


大阪再発KEN記

川崎橋界隈 〜江戸時代の蔵屋敷から近代工場へ〜

江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立した後も、課題は山積していた。中でも混乱した貨幣制度の立て直しは急務だった。統一通貨を製造する、そのための近代的造幣工場の建設地には大阪が選ばれた。明治元年(1868)年のことである。
「水利を考え、広大な面積が必要」との理由で、旧川崎村にあった旧幕府大坂破損奉行所(大坂城の維持管理を行う)の材木置場跡地を始めとする一帯が建設地に選ばれた。敷地は約18万平米で、現在の造幣局の2倍もの広さだった。こうして、かつて材木蔵や米蔵、蔵屋敷が建ち並んでいた川崎村界隈は、大きく変貌を遂げることになる。
建物の設計監督は英国人のT.J.ウォートルスに依頼、煉瓦造りからペンキ塗りまで、日本人職人は初めてながら熱心に取り組んだ。明治3年(1870)には工場を竣工、翌年には創業式を行う。また造幣寮には英国人のT.W.キンドルを 招聘し技術を学び、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始した。
明治5年(1872)、明治天皇が行幸し造幣寮応接所を行在所とし、これを「泉布観」と命名された。翌年には銅貨鋳造工場が完成。なお造幣寮は、明治10年(1877)に造幣局と改称している。
当初は多くの外国人の指導に頼っていたが、日本の職人・技術者も技術の習得と経験を重ね、次第に日本人の手によって貨幣鋳造ができるようになる。こうして、かつて大坂城のお膝元であった川崎橋界隈は、日本近代化への歩みにおいて、重要な役割を担っていくのである。

大阪故郷(ふるさと)20 〜近代・現代建築、桜と古美術、多彩な美が川崎に〜

ここでは、昭和から令和の現代に至るまでの川崎界隈を紹介していきたい。造幣局の工場では、現在も貨幣の製造をしているが、キャッシュレス化の昨今、通貨の流通減とともに、製造量は減りつつある。その分、高い技術力を生かして、平成19年以降、10ヶ国14種類の外国貨幣の製造を行っている。造幣博物館では、貨幣のこれまでの歴史や、記念硬貨などを見学することができる。※1
造幣局と言えば桜が有名だが、この桜は明治の初めに藤堂藩の蔵屋敷(泉布観の北側)から移植されたもの。品種が多いばかりでなく、珍しい里桜が集められていた。これを市民にも見てもらおうと始まったのが、造幣局の桜の通り抜け。明治16年(1883)に始まった通り抜けは、今や大阪の春の風物詩となっている。※2
また、かつて川崎の渡しのあったところには、昭和53年(1978)に歩行者・自転車専用の川崎橋が架けられた。当時としてはめずらしいマルチファン式の斜張橋で、中央の高い塔から何本ものケーブルで吊り下げた姿は、とても美しいと評判だ。そして橋の上からは、水の都ならではの情緒溢れる風景、大阪城も眺めることができ、夕景、夜景を楽しむにもおすすめの場所である。
この橋の対岸、網島側には、藤田美術館や太閤園がある。「曜変天目茶碗」など国宝9件、重要文化財53件を含む、約2000件のコレクションを有しているのが藤田美術館。若い頃から古美術への造詣が深かった実業家の藤田伝三郎は、特に茶道具に対する鑑識眼も優れていた。当時、日本の美術品が海外へ流出することに危機感を覚えた伝三郎は「国の宝の散逸を防ごう」と蒐集に乗り出したという。
その志は嗣子らが受け継ぎ、昭和29年(1954)に藤田美術館を開館させた。時を経て建物の老朽化のため、このほど建て替えをし、新しい建物が竣工した。令和4年4月(2022)にリニューアルオープンの予定である。受け継いだ美術品を次世代へとつなぐ、新装美術館のオープンが待ち遠しい。
※1:令和2年(2020)11月現在、中止されている
※2:令和2年(2020)は中止された

なにわびと

藤田 伝三郎(ふじた でんさぶろう) 〜関西経済の礎を築き、芸術にも心を寄せた偉人〜

明治時代、大阪を拠点に実業界で活躍し、数多くの功績を残した藤田伝三郎だが、その功績は意外と知られていない。天保12年(1841)、伝三郎は現在の山口県萩市で酒造業を営む藤田家の四男として生まれた。
伝三郎が経営で才覚を表したのは十代後半のこと。早くに亡くなった叔父が経営していた酒屋を3年後には立て直したという。明治元年(1868)、27歳で大阪へ。兵隊がまだ草鞋をはいていたのを見て革靴を作ろうと思いつく。当時は佐賀の乱や台湾出兵など騒乱が続き、軍靴製造の事業は大成功を収めた。
明治14年(1881)には藤田組を設立。翌年、関西初の私鉄阪堺鉄道(現南海電鉄)を開設。その後、秋田県では小坂鉱山を日本屈指の 銅山に再生、岡山県では児島湾干拓など、多方面で事業を展開した。大阪商法会議所(現大阪商工会議所)の発起人に名を連ね、2代目会頭に就任。大阪日報(毎日新聞の前身)の再興や、大阪商業講習所(現大阪市立大学)の設立にも寄与した。まさに、関西経済の担い手となる企業の種を撒いた立役者といえる。
そんな伝三郎だったが、偽札事件に巻き込まれ、三ヶ月ほど抑留されてしまった。後に真犯人が見つかったものの、長く市民から疑惑の目を向けられ、以降、公の場に姿を表さなくなる。
事業では有能な人材を置いて資金を注ぎ、その成長を見守った。一方、趣味人として茶道具などの骨董品、古美術品の収集にも力を入れた。さまざまな産業や美術品収集にも力を注いだ伝三郎は明治45年 (1912)、72歳で逝去。
彼の収集品を収めた収蔵庫は戦火を逃れ、戦後、藤田美術館として開館した。大阪に企業の種を撒き、常に先を見据えていた藤田伝三郎の関わった企業は、今もこの地で関西を支えている。

藤田 伝三郎(ふじた でんさぶろう) 〜関西経済の礎を築き、芸術にも心を寄せた偉人〜

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