大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2009 第26号>

浪花百景「鮹の松夜の景」


国員(くにかず) 画


鮹の松夜の景

 江戸時代、大坂には諸国の産物が集中し、中之島には諸藩の蔵屋敷が立ちならんでいた。

 その前には各藩自慢の松が植えられ、人々は水辺に映る松の景色を楽しんだ。

 なかでも鮹の泳ぐ姿に似た広島藩屋敷前の鮹の松は戦国武将福島正則が自邸の傍らに植えたと伝えられる名木で、特に月の夕べ、雪の朝の眺めは激賞されていた。

 錦絵の建物は西隣の久留米藩屋敷。広島藩から引き継ぎ、明治維新後は大阪市が肥料を与え保護したがやがて枯死。現在は大阪大学中之島センターがある。

(「特別展 浪花百景ーいま・むかし」大阪城天守閣編集)より


大阪再発KEN記(10) 松葉 健

<モダン大阪の頃>「難波橋」


モダン大阪の頃

なにわ橋は難波橋と書く。
大阪の人にはライオン橋というほうが分かりやすい。
僕は少年時代に堺筋の日本橋五丁目に住んでいたので、親につれられて北浜の三越デパートへいき、帰りに中之島公園で遊んだ。
通天閣のライオンはみがきのネオンが輝いていたように、ライオン橋の石像も、なぜか輝いているように感じていた。
口をあけて咆哮する一頭と口を閉じて静かに熟考する一頭。
まるで街を見張っているようだ。北浜は株の街。経済の羅針盤か。
難波橋を渡る市民の味方、いつもごくろうさまです。
ライオンは黙して語らず。

大阪故郷(ふるさと)8 渡辺橋〜玉江橋へ、中之島西部の今昔

大阪の街は、江戸時代から明治・大正・昭和期にかけて「水の都」といわれ、橋の数は「八百八橋」とうたわれた。近世以来、大阪平野は農地やデルタ地帯に水路が縦横に開削され、その浚渫(しゅんせつ)残土による盛土で宅地開発が進み、出船入船でにぎわう商都の地盤が築かれ発展した。その都市機能の中心地が堂島川と土佐堀川に挟まれた東西約3kmの中州・中之島であった。中之島中心部から西部の渡辺橋・田簔橋・玉江橋付近には、岡山・平戸・宇和島・福岡・鳥取・広島・久留米・高松ほか、各藩の蔵屋敷が建ち並び、天下の台所を象徴する景観を展開していた。

堂島の大橋の南詰、リーガロイヤルホテル前の蔵屋敷跡碑には「江戸時代、諸藩は年貢米の換金や産物の売りさばきのため、水運の便利な中之島・堂島付近に蔵屋敷を建てた。ここは讃岐高松十二万石の蔵屋敷があったところである」と記されている。

タイムスリップして今や21世紀。新聞社、美術館・科学館といった文化施設、ホテル、国際会議場のほか電力・通信その他民間企業のビルが建ち並ぶ「大阪の心臓部」中之島の西部は再開発が目白押しだ。渡辺橋南詰の音楽・芸術の殿堂・フェスティバルホールは平成21春から建替工事に入り、その完成を待って、西隣の朝日新聞社ビルも建て替えられる。渡辺節(せつ)が設計し、大正の名建築とされる重厚優美なダイビルも市民に惜しまれつつ、3年後の解体を待っている。対岸の玉江橋北詰の大阪大学付属病院跡地には、朝日放送や飲食店が入る「ほたるまち」が出現し、34階建ての高層マンションがそびえ立つ。

平成20年10月19日、京阪電鉄の中之島線が開業した。天満橋駅から分岐して、なにわ橋・大江橋・渡辺橋駅を経て終点の中之島駅までおよそ8分。これまで南北に22の橋がつないでいた島に東西方向の鉄道路線が加わった。水辺を散策するもよし、知的好奇心を満たすもよし、中之島の魅力がさらにぐんと引き寄せられた。

大阪故郷(ふるさと)8 渡辺橋〜玉江橋へ、中之島西部の今昔

なにわびと

間長涯(間重富)「幕府も絶賛した町人天文学者」

 地下鉄長堀鶴見緑地線の西大橋駅を下車すると、地上は、ちょうど長堀通りの中央分離帯に出る。階段出口に自転車駐車場があり、その西側に「間長涯天文観測の地」の碑が立ち、碑のすぐそばには「富田屋橋跡」と刻まれた小ぶりの石碑が置かれている。

町人天文学者・間長涯(はざまちょうがい)は本名を重富(しげとみ)といい、今から約250年前の宝暦6年(1756年)、この富田屋橋北詰の質商十一屋の六男として生まれた。

幼少期から数学を好み、12歳で天体模型を模造する天才として成長、20歳ごろから家業のかたわら、天文歴学書を読み、研究を深めて先輩の麻田剛立(あさだごうりゅう)に師事、40歳の時、同門の高橋至時(よしとき)とともに、司に代わって幕府の改暦事業に参画、3年を費やしてそれまでの最高の精度を誇る「寛政歴」を完成した。

時間を年・月・週・日などに区分し、その単位によって時間を計るのもを暦といい、その体系の定めを暦法という。長涯は、自ら考案した機器を駆使して観測技術を一新、高度の暦法を作り上げたのである。

幕府はその功績に対し、直参に取り立てようとしたが、長涯は武士になることを好まず辞退、以後幕府の天文測量を担う御用町人として活躍した。

長涯が、富田屋橋の自宅の蔵に建てた櫓から望遠鏡を覗く時は、御用観測として一般の通行を制限したという。

文化13年(1816年)60歳で没。墓は天王寺区茶臼山町の河底池和気橋南詰、統国寺にある。

間長涯(間重富)「幕府も絶賛した町人天文学者」
富田屋橋跡碑
間長涯(間重富)「幕府も絶賛した町人天文学者」
間長涯(昭和24年模写)

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