大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2004 第19号>

浪花百景「梅やしき」


「梅やしき」


大阪には、桜橋、桜宮、桜島、桃谷など、花とくに桜の名が付いた地名や駅名が残っている。

その中には、江戸時代に花の名所として、庶民の憩いや娯楽の場であった頃の名残であれば、花と無関係といったところもある。

『浪花百景』の「梅やしき」も地名ではないが、庶民に娯楽を供する場の呼称である。

江戸時代末期から明治時代中期にかけて、この辺りに人々に憩いを供する梅の名所として”梅やしき”が設けられていた。

もともと江戸の町にあった名所を参考に作られたというが、冬が終わり、春がやってこようとする時期、辺りに漂う梅の香りは多くの人々を集めていたようである。

江戸時代末期といえば、まだまだ周辺は人家もまばら。

絵を見てみると邸外にも梅が咲き、酒が入っているのだろうか、手にはひょうたんを持った男の姿が描かれ、梅の花見を楽しもうとする様子が伝わってくるようである。


大阪再発KEN記(3) 松尾 健

<上六かいわい>


「上六かいわい」

 


近鉄上本町駅の近くにむかし、梅やしきがあったそうな。
園内の樹の下で風流な観梅を楽しんだという。

(文化初年)
その時代は、市電も通っていないし、大軌ビル(近鉄の前身)も建っていなかった。

さて、戦後の上六かいわいは、大阪ー奈良間と近鉄大阪線の乗客が上六を起点に通勤・通学の足となってターミナルの賑わいを呈していた。

市電やバスの乗り継ぎの頃なので、サラリーマンなどが帰宅までに、上六で「ちょっと一杯」という気軽な店も多く、われわれ漫画家連中もよく出没した。

なんとなくゴチャゴチャした活気があった。

その後、ハイハイタウンができて、飲食街は地下にもぐり路地が少なくなった。

そして路地が近鉄のなんば乗り入れや地下鉄谷町線開通などがあって少しずつ新しい上六の顔になってっきた。

SHOW都大阪(3)

「上本町六丁目あたり」

江戸時代には末期はこの辺りも、町の喧噪から離れたのどかな風景が広がり、梅やしきと呼ばれる梅の名所が設けられていた。明治の頃にもまだ人々が集まるほどではあったというが、大正時代に入ると、すでに周囲の住民でさえも、かつてここは梅の名所であり、『梅やしき』があったことは忘れられていた。時代が下がり、都心と郊外との人口の流出入が激しくなるにつれ、梅田や天王寺などで、鉄道の敷設、延長、百貨店の営業など、人が集まるターミナル駅が造られるようになるが、ここ通称『上六は』その魁として発展してきた。第2次世界大戦時の空襲により、辺りの家屋は焼けてしまい、そのほとんどがバラックからの出発となった。戦後の混乱期から高度成長期を経て以降、再開発事業が進み、町並みや道路が整備され、上町筋を挟んだ向かいには飲食街などが入った「ハイハイタウン」も建ち、一層の賑わいを見せる。その後、1980年代の近鉄劇場のオープンからこの辺りを訪れる人の客層、年代層が広がる。そして現在に至り、劇場の閉鎖など、往時の勢いは減ってきてはいるものの、過去から続く人の集まる場という”地の履歴”は今も受け継がれているように思われる。が、自動車が行き交い、ビルが建ち並ぶ現在の街の風景からは、『浪花百景』に見られるような、のんびり花を楽しむ場があったなど想像もつかない。


なにわ人 木村兼葭堂

『集客文化』の花を咲かせた町人文化

このコーナーでは、商いと学問がいきいきとしていた大阪文化の特徴でもある町人学者を取り上げていく。

「木村兼葭堂」

大阪は今も昔も商業の町、中小企業の町である。もちろん江戸時代の城下町は武士が行政を掌握していたが、江戸から赴任してきた町奉行は「武士といえども大坂の住めば町人の気風に染まってしまう」と嘆いたという。(渡邊忠司著『町の人都 大坂物語』)しかし、大坂のおもしろさは、その町人(商人)が同時に文化人の生活と顔を持っていて、旺盛な文化活動を展開し、今日でいう「集客文化」の形勢に威力を発揮したことであった。
博学多才で知られる木村兼葭堂は、元文元年(1763)に北堀江の酒造家に生まれた。幼少から詩を、青年期から家業のかたわら学問の道に足を踏み入れ、50歳ごろから木草学を学び、『山海名産図解』や『奇貝図譜』を著しながら、書画、書籍、金石、器物を蒐集して、広い邸内は内外の珍奇品で埋まった。44歳から没年までの交遊録『兼葭堂日記』を見ると、文字どおり「千客万来、知名人の多さに驚かされ誰もが度肝を抜かれる。つまり兼葭堂の邸宅は図書館であり、博物館であり、豪華なサロンだった。」(大阪史蹟辞典)のである。
晩年、米価高騰にからむ事件が生じて伊勢の長島に去るが、10年後帰阪して文房具屋を開業すると、再び内外著名人が次々に来訪、蘭医ケルレルもオランダ船長とともに兼葭堂を訪ねてきた。著書は『銅器来考』『巽斎詩草』『兼葭堂雑録』など、多数。
享和2年(1802)没。行年67歳。墓は天王寺区餌差町大宝寺の「兼葭堂之墓」がある。


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