大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2003 第16号>

「水の都」


「長堀川」


江戸時代の地図である。
大阪城の建つ東側から、西方の海に向かって蛸の足のように川筋が伸びている。大きな船に乗った荷は、積み替えられ、堀や川を伝い小型の船で内陸へと運ばれた。東西南北縦横に走る川や堀は、その機能と風景ともに大坂を"水の都"と呼ばしめ、八百八橋ほどの橋を持つ都市として特徴づけていた。
明治時代以降、工業の近代化が進み、また生活様式が変化するにつれ、街の在り方、構造も変容していく。交通、運輸手段が陸上に移ると、川や堀の持つ意義が薄れ、新たに道路や高速道路の道筋とするため、埋め立てられることになる。川としての機能の終焉は、川の風景の消滅でもあった。
名所図会に見られるような風景のほとんどは今はもう見られない。近世には近世の、近代には近代の各時代を象徴する風景があり、それらは時代とともに変化していく。
"現代の名所図会"的風景は、いま、作られつつある。


聞き書き私的「大阪弁」(3)

 


いまや全国に拡がりつつある大阪弁。しかし、使われなくなったり、消えつつある言葉がたくさんあります。
普段の生活で使用していたそれらの言葉を、記憶の中を探りながら’聞き書き’として掲載していきます。

「てんごう」


「そんなてんごしたら、あきまへん」「てんごしなはんな」などと使う。大きくふざけるでもなく、ひどいいたずらでもなく、ちょっとふざけているような感じ。火を使う台所などで、ばたばた騒いだりしてると、「てんごしてたらあきまへん」と怒られる。きつく表現される場合もあるが、やさしくたしなめる時にも使われる。歳をとって、同じような事をしていると、「てんご」ではなく「しょうもないことしい」と言われたりする。また、密室での男女の「てんご」は別の意味。

「〜しまひょか」「〜まひょ」


「舞台でも観に行きまひょか」「そうひまひょ」。ほんわかな雰囲気が漂う言葉遣いである。若旦那、隠居のご老人が和服姿で会話を交わす、そんな光景が頭に浮かぶ。落ち着きと余裕を感じさせる。ゆえに、試合などの真剣な勝負事の場面には似合わない。野球の試合で、ベンチ前に円陣を組んで監督が声を張る。「ほな、これからドットいきまひょか」、「そうしまひょ」と選手が応える。これでは意気があがらないことおびただしい。ただ、強面の人に、低い声でこの表現を使われると、ある種怖く聞こえる。

「ぼちぼち」


「ぼちぼちでんな」。「最近、調子はどないだ」、「がんばってるか」と尋ねられた時に、それに応えるように使う。商い上では、自分のところの景気が良くても、悪くても、「ぼちぼち」なのである。良くても自慢せず、控えめに、悪くてもしぼまず、落ち込まず、といいうところ。が、様子を探られまいとする自己防衛という面もあるのかもしれない。定型的な会話の一つであるが「ほどほど」という意味合いから見れば、表現としては当たらずも遠からず、で日常生活上便利な言葉である。

「いぬ・いまっさ」


「時間やから、そろそろ、いぬわい(いにまっさ)」。行く、去るの意味の「往ぬ」が、この「いぬ」。会話的にもっと簡単に言うと「ほな、いぬわ」、となる。商売の話をしてて、だんだん話も脱線してきて、知らんうちにながいしてもうて、こら、帰らなあかん、ちゅう時か、潮時やなっちゅう時に、「ほな、いぬるわ」、「あの件、よろしゅうたのんまっさ」との返しとなる。家うちというよりも、商いの場でよく聞かれた。

「ひにちぐすり」


病気になったときやけがをしたとき、薬を飲んだり、塗ったりする。処置が終わると、「このままほっとくしかないなあ。あとは日にち薬や」となる。薬も飲んで、おとなしくしてて、あとはなにも仕様がない。動きたくても動けず、うずうずしていると、こう言われることがあった。しばらくガマンしてたら治る、時間が経ちゃ大丈夫や、というこの表現は妙に説得力がある。ちなみに、恋愛に悩みを持つ人にそっと言うてあげるとたちどころに回復するでしょう、か。

「ちょっと来いに油断すな」


「○○さん、ちょっと」「○○、ちょっと来て」突然、会社の上司、同僚などに呼ばれることがある。そんな時はろくな事がない。「ちょっと」のつもりで行ってみると、「ちょっと来て」の「ちょっと」は少しも"ちょっと"ではない。たいていの場合、小言やややこしい頼み事か文句だったりする。誰かに呼ばれた時、あとでショックが大きくならないよう、胸の内でつぶやくと良い。"モノも言い様"ではあるが、その”ちょっと”には油断してはいけないのである。

「かんにんな」


頭を下げられ、「かんにんしたってな」という言葉を聞くと何か心にじいいんと響くものがある。それは、相手に対して、自分の身内や仲間内の事の場合に使われる。相手の慈悲に頼るしかないといった思いが伝わってくるように感じられる。が、ただ言い放つように使われた場合はその逆で、反省も詫びの心も感じられず、不愉快このうえない思いにさせられる。深刻な時に、また、親しみを込めての時、詫びとして使う。

なにわ印象派(3)

「新聞の始まりは大阪」 藤井 肇

大学でマスコミ論などを話していて「新聞の発祥は大阪だよ」と言うとたいていの学生が「ウッソーッ」といった顔をする。商売に関連することは別として、情報や文化関係の事業が東京でなく大阪から始まっていることは、とても信じられないという様子なのである。 ここに一枚の新聞と実寸台のコピーがある。B4判よりやや小さめ。上段に右から左への横書きで「朝日新聞」とあり、すぐ下に同じく右から左への横書きで小さく「明治十二年一月二十五日 土曜日第一號」とある。 文字通り今日の朝日新聞の創刊号で、大阪の第三区(のちの西区)一小区江戸堀南通一丁目七番地で印刷、発行されている。これが、一般紙、商業紙と呼ばれる日本の新聞の始まりとされている。124年前のことだ。 毎日新聞も大阪に生まれた。そして朝日は明治21年、毎日は同44年、それぞれ東京に進出した。全国紙はこうして始まる。ほとんど聞かれなくなったが、大阪以外で朝日を大朝(だいちょう)毎日を大毎(だいまい)と呼ぶ人がいる。大阪朝日、大阪毎日略である。 朝日新聞発刊当時、大阪には江戸時代の瓦版の流れをくむ小さな新聞がいくつかあった。東京はどうかというと、ここはすでに政治の中心だったから、天下国家を論ずる、いわゆる政党機関紙のような政論新聞がいくつかあった。大阪で生まれたこの朝日新聞は「大阪府官令」など、今でいう官報の記事を第一面のトップに載せてはいるが、紙面のほとんどは街のニュースないし情報である。こんなのが見える。 「大和国奈良東大寺の博物館は例年通り来る三月中旬より開場になり本年は該地正蔵院の宝蔵を開かれ珍品出品なるに付当今調べ中なりと」「東高津村の梅屋舗(やしき)は追々梅の蕾を綻ばすとて茶屋酒肆はそろそろ小屋掛にかかり来る二月中旬には全く開き馥郁四辺を薫はすに至らんと閑雅人の話しなるが実に梅は百花の魁であり舛」東大寺の宝物殿開催といい、梅の開花予想といい、いかにものんびりした街ダネだ。この新聞は見開きで4ページで、第2面、第3面にも街ダネが続く。天満の天神さんの境内わきに、いなりずしで評判を取った店があったが、もうけに溺れて落ち目になったという話、芸人の家に空き巣に入った泥棒が、盗んだ風呂敷包みが舞台衣装とわかって畑に投げ捨てて逃げた話、あるいは折からの道頓堀の芝居の評判記などである。 さし絵が、1,2枚あるだけで、あとは小さな活字だけを並べた、なんとも殺風景な紙面だ。しかし、まずは読者の知りたがっていることを報せようという、今日の新聞の原型のようなのもがこの第一号からうかがえる。商売という点からみても、これは極めて妥当なことだ。これまた、「売れてなんぼ」というのだろう。さすがは大阪だ。新しい商品として新聞を本格的に売り出したのである。ここには、近松門左衛門時代にもさかのぼる瓦版の精神が息づいている、といってもいいだろう。が、それよりもなによりも大阪の風土が育んだ、進取の気性に富む起業家精神がそれを成し遂げた、とみることができる。 朝日新聞の初代社主、村山龍平は当時、手回し印刷機をアメリカから買い、現在の朝日新聞大阪本社の真南500メートルほどのところにあった木造2階建て棟割り長屋に据えた。この印刷機は今も中之島の同本社1階の朝日ホールに置かれてある。ちなみにこの印刷機で1時間に300枚刷れたという。現在の輪転機は1時間に軽く14万枚を超す。 <藤井 肇>
朝日新聞論説委員、
朝日カルチャーセンター専務などを経て、
関西学院大学、桃山学院大学など非常勤講師。
1932年(昭和7年)生まれ。


朝日新聞 創刊号第一面(朝日新聞社 提供)
(1)朝日新聞 創刊号第一面(朝日新聞社 提供)
創刊当時使われていた手刷りの印刷機。
(2)創刊当時使われていた手刷りの印刷機。「ダルマ」「おたふく」と呼ばれていた。



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