大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2002 第13号>

船場「北浜」


北浜


堺筋を北に、土佐堀通りに出る辺りは、北浜と呼ばれ、江戸時代から、金相場会所、俵物会所が設けられるなど商取引の中心であった。
写真は現在の北浜1丁目付近、土佐堀通りを東から西にみた風景で、右手上方奥には控訴院が建ち、中央上方奥には大阪市役所の尖塔が突き出ている。交差点左下に屋根が見える建物は当時の大阪株取引所である。
土佐堀通りには市電やバス、自動車、リヤカーの他に、中央下に馬が荷台を牽いているいるのが見える。この頃はまだ、道修町などの商家では、店先に馬をつなぎ止める金具などがあり、荷の運搬には馬も使われていた。
町の様子から見れば、明治時代以前の瓦屋根の連なる木造家屋の光景と、現代の鉄筋コンクリートを主とするビルの町並みの間に現れた、石やレンガ造りの建造物が建ち並ぶ近代大阪の貴重な風景写真と言える。
しかし、現在すでに大阪株式取引所の建物は取り壊され、旧西田三郎商店のレトロな近代建築も今はなく、北浜の町並みも、船場もその街としての役割とともに、その姿も大きく変わろうとしている。


船場の言葉(3)

「船場言葉の源流とその豊かさ」


「薬人を殺さず薬師人を殺す/左遷/諸行無常/杞憂/古稀」

大阪文化の源流をたどると、江戸時代の西鶴と近松に出会う。井原西鶴は浮世草子作者、今でいう小説家であり、近松門左衛門人形浄瑠璃の台本作者、今でいう演劇の脚本家である。西鶴が、人間社会の金銭欲や男女の世界のありのままを、リアリティ豊かに描いたのに対し、近松は、義理と人情の人間模様を、あくまで情的に捉えながら、美と真実を追究した。

近代文学でいえば、西鶴系は、「夫婦善哉」などの織田作之助の作品に、近松系は「細雪」など、船場を舞台にした谷崎潤一郎の作品に現れた。三田純一の「大阪弁のある風景」によれば、「人にものを頼むとき、(普通の)『それを取ってくれ』が、(大阪弁では)『それ、取っとう』となる。船場だと『それ、取っておくれやす』と丁寧になる。」という。

大正末期から昭和初期の中船場を描く『船場を語る』に収録された「年の瀬の丁稚」(国枝良次)には、番頭と丁稚の会話が次のように出てくる。

「オイ、良吉トン、○○さんへ早う集金に行っといでんか」
「ヘイ」
「番頭さん、只今戻りました。○○さんへ行って来ましたが、あきまへん。明日来てくれ言うてまんねん」
「阿呆な奴やな、ヘイ左様かと言うてだまって戻ってくる奴があるもんか。金を戴くまで頑張ってこな、あけへんやないか。もう1っぺん行っといで」
「番頭さん、そんな無茶なこと言うても、くれへんもんはしゃおまへんやないですか」
「そんな事言うてたらあけへん、早う行ってこい」

年末のあわただしい商家だが、どことなく船場のふくらみが感じられる会話である。


『銘木濱日記』(今木善助・伊勢戸佐一郎共著)は、西横掘界隈の銘木店の一代記であるが、昭和20年6月の戦災の日、父と姉妹の会話が次のように出てくる。


「お父さん、ただ今帰りました」
「家も無事残った。早う上へ上がって体を休めなさい」
「こいちゃん、どないもなかったん。帰りが遅いんで心配してたんよ」
「ありがとう、。十三から歩いてきたんよ」
「ほう、ずいぶん歩いてきたんやなぁ」
「家が焼けてないかと心配で・・・・。怖かったわぁ」
「そんなに怖かったん」
「空は真っ黒やし、梅田まで来たら、あたりはボーボー燃えて、ガード下で馬が死んでるんよ。市電に乗るつもりやったんやけど、動いてへんから炎の中を梅田新道から淀屋橋へ抜けて北浜まで来たら、空が大分晴れて来てひと安心したん」
「・・・・・」
「そやけど、家の手前まで来たら大きな家が焼けてくすぼってるし、横掘りさんの辻を曲がったら、家のあたりから白い煙がでてるやないの。そらもう、びっくりしてもて」


悲惨きわまる戦災の中の船場界隈の言葉である。


はんなりと 船場(3)

「大正末〜昭和初期の船場」 大阪天満宮研究所研究員  近江 晴子

大正12年11月、關一(せきはじめ)大阪市長が誕生します。關市長のもと、大正14年4月1日第二次市域拡張が行われ、東成郡と西成郡の44カ町村が大阪市へ編入されていわゆる「大大阪」の時代を迎えました。大阪市は人口・面積ともに東京市を抜いて全国第一位、世界で第六位の人口を有する都市となったのです。 もっとも、東京が関東大震災で被害を受け、市域拡張が遅れたためといえるのですが。ただ、工業生産額では、本格的な戦時体制に入った昭和13年までずっと、大阪府が東京府をおさえて全国一の地位を守りました。昭和初期といえば、日本は緊縮財政による不況に引き続いて世界恐慌に巻き込まれ昭和恐慌に突入した時期でしたが、大阪の町、とくに船場では、大正末期から昭和12年頃までの期間、江戸時代から伝えられてきた洗練された質のよい都市文化が最後の光芒を放った時期であったと私は考えております。 船場では、早いところでは明治の終わりごろから店と住まいの分離が始まります。店の主人家族は郊外(阪神間がとくに多かった)へ移住するようになりましたが、昭和のはじめ頃では、まだまだ船場に住み続けるお家も多かったし、郊外へ出て行ったところでも子どもらはもとの船場の小学校へ通ったり、お祭りや年中行事といへば、船場へもどってきたりして、船場のくらしから切り離されることはありませんでした。 前回、船場の暮らしは、、町内や同業仲間や本家分家別家一統や氏地など、様々な共同体に属していて大変だったということを申しましたが、そういった「大変なくらし」は戦前までちゃんと続いていたのです。おとなにとっては大変な船場の年中行事も、子どもにとっては大きな楽しみでした。中でも、氏神さんの夏祭りを船場の子どもらは指折り数えて待っていました。北船場の愛日小学校と集英小学校の校区の境界は、氏神さんである御霊神社と坐摩神社の氏地の境界でした。 江戸時代の氏地共同体が明治以後は小学校の校区共同体に重なったのです。「御霊さん」にしろ、「坐摩さん」にしろ、その夏祭りは氏地の町中あげてのお祭りです。子どもにとっては、家族や店の人々、町内の人々、まわりの大人という大人全員が大騒動してお祝いするお祭りです。こんなうれしい楽しいことはありません。 平野町と順慶町には夜店が出てにぎわい、南や北の繁華街へ出れば一流の芸能を堪能できました。 昭和6年には郷土雑誌『上方』が創刊され、執筆者には一流の上方文化人が顔をそろえました。 幕文楽・歌舞伎をはじめとする上方芸能は大輪の花を咲かせ、花街が栄え、それらを支えたのは船場の人々だったのです。


明治30年建造当時
(1)明治30年建造当時 御殿学校といわれた集英尋常小学校の正面
今橋つきぢの風景
(2)明治29年竣工の愛日尋常小学校

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