大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2001 第10号>

水のある風景「平林貯木場」


北の大火と堂島川

写真は、昭和47年の住之江区南港東1丁目および、平林南1丁目付近に広がる貯木場である。右の幹線道路はニュートラム建設予定地、左上の水路は住吉川の河口部で、画面いっぱいに浮かぶ原木丸太は、さながら爪楊枝を敷きつめたごとく壮観である。 大阪の街は、大阪城と周辺の城下町が原形である。旧淀川(大川)とその支流の自然河川を軸に多くの堀川が開削され、その掘削残土で宅地を造成しながら、江戸時代中期まで市街地を拡張、商都大坂を築いてきた。このうち木材市場は、初期は舟運に便利な立売堀川沿いに形成され、その後次第に川幅の広い西長堀川両岸に移動、明治40年に市電東西線施設のためその一部が西区境川に、大正期には、さらに一部が港区夕凪橋と大正区千島町に移転したが、昭和戦前・戦後通じて、これらの各貯木場が大正区に集約されて、木材産業の一大拠点となった。 昭和20年の戦災で、西部臨海地区は、都心ととも焦土と化し、加えて戦前にはじまる地盤沈下で、港・大正区は高潮浸水地帯となり、復興土地区画整理事業と大正内港化計画によって、大正区内の貯木場、製材・合板工場、木材市場を平林地区に集団移転させることになった。 平林貯木場の建設と、木材関連業者260社の集団移転は難航をきわめたが、復興・発展期における民間貿易の拡大を背景に需要が激増、木材輸入も順調に伸びて、平林地区は、写真に見られるように、水面貯木場満杯の情景が現出した。 大阪港の木材輸入量は、昭和34年の113万m2から、51年は266万m2と史上最高を示したが、その内容は、原木丸太が減少して製材品が増加する経過であり、貯木場の原丸太も以後急速に減少してゆくのである。


故事・ことわざに学ぶ(3)

「薬人を殺さず薬師人を殺す/左遷/諸行無常/杞憂/古稀」


「薬人を殺さず薬師人を殺す/左遷/諸行無常/杞憂/古稀」

「故事」は、昔から伝えられた興味ある話、「ことわざ」は、古くから人びとに言いならわされた教訓や風刺などの意味を、短く表現した語句で、中国の古書によるものが多い。軽い言葉遊びの要素も含んでおもしろいが、本来は、複雑で不確かな人間社会を生きぬく知恵として、時には一国の生死を分ける切り札として使われた。


薬人を殺さず薬師人を殺す


「薬師」は医者のこと。すなわち薬が人を殺すのではなく、医者が人を殺すのだという意。最近の新聞紙上に、医療機関における事故がよく登場するが、これは昔からあったことらしい。むろん、医者だけの話ではなく、もちろんその罪はその物になく、運用する人にあると言っており、つまらぬ逃げ口上や弁解をいましめている。

左遷

中国では、右を尊び左を卑しんだから、左へ遷すことは、高い地位から低い地位に落とすことになる。毎年春は、公務員や企業では人事異動が行われ、花が咲き、鳥は歌うなかで、涙して転任する人も多かろう。だが、しかしである。

諸行無常

「無情」ではない「無常」である。この世の全てのものは常ならず変転するの意で、仏教的には、人生のはかなさを言い、「平家物語」には「祇園精舎の鐘の声、諸魚無常の響きあり」とあって話は暗いが、近代的には、常ならず変転するのだから、窮地に落ちれば次は良き原因をつくって這い上り、飛躍する意を、元気印に解釈するのが正しい。


杞憂

古書の原文は「杞国に、人の天地崩墜し、身の寄る所亡きを憂えて、寝食を廃する者有り」とある。要するに、人生の諸事に対する取り越し苦労、いらざる心配を言い、もっと希望の方向へ目を向け、考えを起こして行動しなさいというのである。


古稀

古書の原文は「酒債は尋常行く所に有り、人生七十古来稀なり」である。酒代の借りは当たり前のことで行く先々にあるが、古来七十まで生きる人はめったにいない、喜ぶべきことだという意である。人生、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という。杞憂を廃し、いさぎよく世に出て事を成し、晴れやかに高齢化社会の一員に加わりたいものである。



大阪今昔記(3)

「大坂の川遊び」 大阪天満宮研究所研究員  近江 晴子

大阪の都心を流れていた多くの堀川がうずめられてしまった今となっては、江戸時代の大坂の人々がいかに堀川と深く関わって暮らしていたか、想像しにくくなりました。 江戸時代、大坂の町中では、荷物の運搬はほとんど川船にたよっていました。荷物ばかりでなく、人も大いに船を利用しました。旧難波橋(現在の難波橋より一筋西に架かっていた)のあたりには、夕刻ともなれば、花火が上がる、たくさんの涼み船が出る、橋の上には大勢の涼み客、大川の浜(川岸)には茶店が出て、それはもう賑やかだったようです。 難波橋から少し堂島川を下ると、大阪高等裁判所がありますが、そこは鍋島藩の蔵屋敷があったところです。蔵屋敷の前の堂島川の浜は「鍋島浜の夕涼み」といわれ、夕涼みの場所、月の名所として有名でした。 大川納涼のクライマックスは、何といっても天神祭の川渡御です。夕刻、旧難波橋の北詰西の浜から御神輿が乗船され、戎島御旅所(現西区本町一丁目)へ向かって堂島川を下られます。本誌前号にも書きましたが、安政2年(1855)、西国奉母大旅行の途次、大坂を訪れた清河八郎は、旧暦6月25日に今橋築地の瓢箪屋の火の見台に上がって、天神祭を楽しみました。前日24日、天神祭宵宮の日に大坂へ入ったばかりで、船を雇うことが出来なかったのです。 清河八郎一行は、このとき、瓢箪屋に11泊しますが、その間に3度、船遊びを体験しています。6月28日には、知り合いの御堂前花屋徳兵衛方を訪れた帰り、花屋が用意してくれた船で、花屋の娘らも一緒に西長堀川から大川を遡って、中之島に船を繋いで、母もまねいて、賑やかに船中夕涼みとしゃれこみます。そのあと、船で母は瓢箪屋へ、花屋の子どもたちは西横堀川へ入って家まで送りとどけ、再び瓢箪屋へ帰ろうとしましたが、すっかり夜もふけたため、堂島川から蜆川へ入って、北の新地の大楼「平鹿」へあがりました。 7月1日には、瓢箪屋の主人帯屋源兵衛にすすめられて、網船をやとい、瓢箪屋から船にのり、木津川口、千本松へ。網を打ち、鯛の子、スズキの子(セイゴ)、ボラの子(イナ)などをとり、夕刻上げ潮に乗って、道頓堀川から東横堀川へ入って楽々と今橋築地まで帰っています。 「船遊びはすべて坂都第一の遊びなれども、中に網舟は尤とも佳興多く、一入のたのしみあり。網も至て上手なるものにて、時により大魚を獲る事ままあり。酒肴の程はいつにても必ず得るなり。潮の加減にて多少ありとぞ。されども魚の多少にかぎらず、紀州、四国、兵庫辺の山々あらわれ、いろいろの風光ありて、中々の眼前景あるゆへ、風雅の楽を好むものは船遊にきわまる也。」と彼の旅行記「西遊草」に記しています。7月3日には、あまりの暑さのため、難波橋のかたより船に乗り、天神橋のあたりで船をとめ、川に入って暑さをしのいでいます。 幕末から150年後に生きている私たちも、生き残った大阪の川にもっと親しみたいものですね。


増脩改正摂州大阪地図
(1)「摂州難波橋天神祭の図」二代目歌川広重画
(大阪天満宮蔵)
今橋つきぢの風景
(2)「木津川口千本松」芳雪画(「浪花百景」)
(現西成区南津守2丁目)

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