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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2000 第6号> |
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大阪百景むかし巡り「上六ターミナルビル」
昭和初年の上六交差点 |
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大阪の街は、市内中央部を南北の半島状に盛りあがっている上町台地と、台地をめぐる低地から成っている。
この上町に、初めて市電が走ったのは明治44年の上本町線(上二ー上六ー天王寺西門前)で、大正3年に大軌(現近鉄)奈良線が開通して上本町停留所を開設、翌4年には、市電九条高津線(安治川二ー上六)、同14年に上本町下味原町線(上六ー下味原)の東西線が走って、上六は近代大阪の新しいターミナルとして次第ににぎわうようになった。
写真の交差点南東角に建つビルは、当初、市電下味原線の軌道予定地上に設置されていた大阪電気軌道上六停留所を市電道路施工のため南側に移設して大正15年6月に竣工した、大軌上六ターミナルビルである。
上本町ー奈良間を結ぶ大軌が開通するまでの上六付近は、台地東側の斜面一帯が、桃・桑・茶畑であり、南北の上町筋は、砂ぼこりが立つ凹凸道で、陸軍第八連隊のある「馬場町方面からくる砲兵・騎兵の兵馬が、当時の演習地へ往き帰りに砂塵をあげて通過した。従って上六付近におけるこの通り筋には、二、三の飲食店があったにとどまる」(「天王寺区史」)という。
大阪はすでに、三越・松坂屋・大丸・そごう・高島屋などの、大規模小売商の老舗があり、鉄道発達に呼応して店舗を移転・拡張して発展を遂げていたが、ターミナルにおける百貨店としては、上六の大軌ビルに開業した三笠屋百貨店がその第1号であった。
すなわち、三笠屋は、大正11年に上六交差点西北角地に、三笠屋食料品店として創業したが、大軌ビル完成と同時に同ビルに移転、地下1階と地上2・3階を貸切り百貨店として経営、大いに客を集めた。その後、昭和10年に全店舗を大軌鉄道が買収して翌11年大軌百貨店と改称、さらに19年に、母体が近畿日本鉄道株式会社と発展的改称を遂げると同時に、近鉄百貨店上本町店として新発足した。
なお、百貨店に向き合う上六交差点の南西角地は、戦災の後、復興土地区画整理事業で公園用地に予定されていたが、戦後の闇市がそのまま飲食店街として定着して、建物移転が不可能になった。そこで施行者の大阪市と地元上六商店街振興組合が協議して再開発組合を結成、日本住宅公団(現都市基盤整備公団)の組合参加を得て、地下2階地上15階の、住宅(287戸)・事務所(60室)・店舗(16,063m2)・駐車場(155台)を含む、うえほんまちハイハイタウンが昭和55年に竣工したのである。
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今に生きる、名言・家訓(3)
「貧富論・幸福論」
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本欄では、古い言葉や、少々なじみにくい言葉を扱っているが、これは、われわれの先人が発した言葉から、今日に生かすべき何ものかを探ろうとしているのであって、いわば今日に問題をとりあげているつもりである。その点了解願いながらお読みいただければ幸いである。
いないな、其方にうまれえぬ人は、かへりて愚にするにこそあれ。親のおしへしわたらひ(生業)をよく心得し人も、おのれになき才学は、学ぶとはいへども、愚になるのみ也。(上田秋成「胆大小心録」)
上田秋成は井原西鶴うあ近松門左衛門没後の享保19年(1734)、大阪に生まれた国学者・歌人・作家である。この言葉は、京都の歌人が秋成に、「あなたは才能がありながら怠けてばかりいる。人に歌を教えて交際を広めたらどうだ」と注意したのに対し答えたもので、「いやいや、歌の才能なく生まれた人に歌を教えるのは、かえってその人を愚者にするだけだ。家業をよく心得た人は、その家業に努めて生きてゆけばよい」と言い切っている。いかにも大阪人らしい、物の道理を説いているが、その秋成が、有名な「雨月物語」の中の「貧福論」で次ぎのように書いている。
前生にありしときおのれをよく脩め、慈悲の心専らに、他人にもなさけふかく接はりし人の、その善報によりて、今此生に富貴の家にうまれきなり。(「貧福論」)
前生における善き心がけと行いがあったからこそ、この世で幸福な富める家に生まれたのだと言っている。良き結果は、必ず良き原因がその前にある。悪い結果は、さかのぼると、必ず悪い原因があると自然の理を述べているが、次に、その逆のようなことも言っている。
さるを富貴は前生のおこなひの善りし所、貧賤は悪かりしむくひとのみ説なすは、尼媽を蕩かすなま仏法ぞかし。貧富をいわず、ひたすら善を積ん人は、その身に来らずとも、子孫はかならず幸福を得べし。
善い原因があれば良い結果が生まれるなどというのは、無知な女をたぶらかす屁理屈だと言っている。ならば、善い心がけ、善い行いをしても無駄かというと、そうは言っていない。つまり、善い心がけというものは、良い結果を狙って成すべき種類のものではない。そこで「貧富をいはず、ひたすら善を積ん人は、その身に来らずとも、子孫はかなず幸福を得べし」となる。
世の中はややこしい。人間も単純ではない。善すなわち幸福とはいかぬ。よく働いたからたちまち金持ちになるとは限らぬ、不条理である。しかし、長い時間、広い世界を見渡すと、自分の時代は苦しくとも、次の時代に幸福がわが街や家に来よう。それでよいではないか、と言っている。
家訓にはいろいろある。貴族の家訓もあれば武士の教訓もあり、商家の家訓もあるが、どういうものか、家訓は古いものが、重く深い味わいが言葉の奥に流れて良い。大阪の人ではないが、武士が書き残したものを掲げる。
死なんと思へば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。家を出るより帰らじと思へば又帰る。帰ると思へば亦帰らぬものなり。不定とのみ思ふに違ばずと言えど、武士たる道は不定と思ふべからず。必ず一定と思ふべし。(上杉謙信・春日山城壁書)
今日的感覚からは、一読理解しにくい思想である。意味するところは、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」的な、武将としては当然の言葉ともいえるが、考えてみると、私たちは、儲かることでなければと言っているものの、その仕事に励んでいる時は金銭のことを離れている。そこで仕事が成立し、金銭を得て生計を立てている。「不定のみと思ふに違ばずと言へど、武士たる道は不定と思ふべからず」とは世の中思うようにいかぬというが、武士たるもの、そう考えてはならぬ。「死なんと思へば生きる」という道一つしかないのだという。
私たちは、利欲を離れて仕事をすることはできなくなっているが、世の中の大きい仕事は、みな、一生懸命が先にある。私たちが現在行っている仕事は、金銭の計算もあるが一生懸命もある。富や幸福は、必ずその一生懸命の上に実るもので、その原理は一つである、というわけである。
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うんちく辞典(6)
千日前・芦邊倶楽部 |
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芦辺倶楽部は、洋風木造2階建て(一部3階)の3館からなる興業館で、明治43(1910)、44年(1911)と順次開業した。
当時は、活動写真が大流行で、千日前には第一電気館、大阪館、など7館が営業しており、芦辺倶楽部は寄席の他に、二つの活動写真館を備えていた。
それまで、千日前周辺では、落語、講談、などの寄席、軽業(かるわざ)、奇術をはじめとする常設の小屋などが軒を並べ、大衆娯楽の中心であった。
しかし、わが国初のシネマトグラフの上映が明治30年(1897)、南地演舞場で行われて以降、新しい娯楽としての活動写真に人々は惹きつけられていった。明治30年代後半から40年代にかけて、遊びの光景が変わりつつあった時期であるといえる。
また、明治45年(1912)1月、千日前を襲ったいわゆる「南の大火」が以降に続く街の姿に大きな影響を与えた。
難波新地から出火した火は、西からの烈風にあおられ、東方へと燃え広がった。東西には現在の戎橋筋の東から谷町筋までをなめつくす大火であった。興行街では小規模な寄席や小屋のほとんどが焼失した。そして、その後の電車道の敷設により、千日前の道路幅が広がり、活動写真館などの大規模な娯楽施設を中心としたまちづくりが、進められていくのである。
芦辺倶楽部にはもう一つの特徴があった。それは2号館と3号館の屋上に設けられていた屋上(空中)庭園「芦辺パーク」である。開園の案内チラシによると、「園内ニハ八清冽ノ清水ニ光華ヲ堪工タル泉地アリテ周囲ニハ珍花木草ノ類」があり、「装飾塔ニ登レハ茲ニハ絶ヘズ微妙ナル音楽」を演奏していたという。娯楽施設としての充実か、集客か、どちらにしても、人々に耳目を集めたには違いないと思われる。
3号館
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1号館
2号館
観覧席正面・観覧席
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