大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <1999 第2号>

大阪百景むかし巡り「出初式」


出初式長堀川(現長堀通)消防局あたり

四つ橋は江戸時代から大阪の名所であった。その名所の地にあやかるように設けられた公営施設に戦前には電気科学館、戦後には消防局の本庁がある。一方はわが国初の天文観測地にふさわしく、他方は消防ポンプ製造のさきがけをなす竜吐水製造の地元といういわれを持つ。 この西長堀界隈は、江戸時代から明治後半まで川をはさんで両側に材木問屋が建ちならぶオトコのマチであり、その背面は片や新町、片や堀江の花街であった。それが明治23年の新町焼け同43年の市電の開通により、情緒を一変させ、近代化にふさわしく、市電の変電所や実業協会のビルを出現させて行く。 そして、太平洋戦争終末の戦災は情緒のみならずマチを徹底的に破壊してしまった。戦後、実業協会ビルの所在地は逸早く消防局の本庁として転用され、一時期、その出初式は大阪の新春になくてはならぬ風物詩となり、昭和24年から同40年までの17年間、写真のような偉容を誇る存在となった。 しかし、モータリゼーションによる陸上交通の発達に伴い、長堀川は埋めたてられ時代の流れとともに消防出初式っも水面を求めて移動せざるを得なくなってしまった。


大阪の老舗と暖簾(2)

地方史家 伊勢戸佐一郎


問屋集団のなりたち

●問屋集団のなりたち
江戸時代の大阪案内書として知られる「懐中難波雀」などには「諸商人・諸職人の所附」が記されていて、どこに行けば、どんな商品が仕入れられるか、また買い取ってもらえるかの詳細が、たちどころに分かるようになっている。有名なものには、延宝7年(1679)刊の「改正 増補難波丸網目」があるが、前者と後者では少し趣きを異にしている。すなわち、前者ではかなりの数で個人名で扱い商品が記されているが、後者ではほとんどが町名で表示されている。これは元禄・享保期をはさんだ前後で商業組織が大いに整備され、集団化していったことを意味している。 なぜ、そのように一つの商品を扱う商人が同じ所に群れを成し、櫛比するようになったのだろうか。萌芽はすでに元禄期に入る時期に見られるが未成熟であったためだろうか。しかし、よく調べてみると、すでに第一次生産物としての要素が高い品物を扱う業種は比較的に集団化されてきており、工芸的あるいは精密な加工を要する商品に個人名が多い事に気づく。このことは、旧くから商品化された業種では商いの要素が整ってきており、同業者同士で商売がやりやすいように集合して来ていることを示すものであるとともに子弟や使用人が独立する場合には、近くの自分の所有する土地で開店させることが何かにつけて好都合であったことを示唆しているものと言えよう。一方、個人名で見られる業種には菓子屋をはじめ刃物鍛冶や鏡、墨、筆、版木、仏具、指物、鼓、それに香具屋など、その制作に高度の技術や鑑定を必要とする職商売の業種が多い傾向が見受けられる。 それが、18世紀になると先を争うように集団化し、次第に一つの街区が一業種によって占められていくようになる。やがて、同一業種の中の勢力の強い老舗の大店(巨舗)連中を中心に、株仲間としての結束を固め、その土地での他業種問屋の開業を不可能にした。こうして、大阪のマチは名実ともに徳川幕府の天下の台所になって行くのである。 こうした問屋街で店舗を持つ商人たちであるが、その多くは、富欲な大店(巨舗)の支配下にある借家住まいであり、商いのみが自分の糧であったから、いきおい、同業者同士がお互いに融合し合って、ともに発展していく方策を採った。各種組合や講が成立する由縁でもある。それらの人々が一旦、窮乏を極めた時に願い出ると、合力による救済が周囲の業者たちによって行われ、問屋街は体面を汚すことはない。老舗・巨商といわれる名家になると、分家・別家を含む一統の中に時に不義理をなすものも出現するので、それ故に犠牲を払う要素も見られるが、一統の結束を強固にする絆が問屋集団の形成を更に進めるのである。


●岩崎運河


木津川と尻無川をむすんだこの岩崎運河は、大正時代に開削された新しい運河であり、大阪ガス会社の開設とも大いに関わりがある。 開通とともにガス会社に石炭が運ばれ、コークスが副産物として大量に生み出され、大阪の産業を更に発展させる一要因となった。

うんちく辞典(2)

「眺望閣」と「凌雲閣」

100年も昔の事である。
大阪のミナミとキタに、100尺を超える高層建築物が建っていた。”ミナミの5階”と呼ばれた「眺望閣」、”キタの9階”と呼ばれた「凌雲閣」である。高層とは書いたものの、100尺と言えば30mほどである。 現代とは異なり、明治の中頃としては、あたりの町並を圧倒するかのような様子であったに違いない。 眺望閣は、今宮村(現浪速区・日本橋あたり)に、明治21年(1881)に建てられた、高さ17間1尺(約31m)の八角形の木造5層楼閣であった。 眺望閣からの展望は特に西向きからの眺めは、遠く淡路島まで見渡せたという。船の往来する海の光景は、格別のものであっただろう。 その翌年、高さを競うように建てられたのが、北野村(現北区・茶屋町あたり)の凌雲閣である。 高さは130尺(39m)と眺望閣を約10mしのいでおり、1・2階は5角形、3階からは八角錘台の形で、その上に丸屋根の付いた展望台となっている、奇妙な形をしていた。 どちらも、それぞれ「有宝地」、「有楽園」といった遊園内に建てられた、高層からの眺めを売り物にする、娯楽施設の一つであった。 池泉が整備され、四季の花が咲き誇り、茶店、遊戯場が設けられた一角にそびえていたわけである。それまでの娯楽の中に、高層からの眺めという新しい楽しみ方を拡大化して採り入れた点に時代の空気を感じさせる。 高層建築をいうのは、宗教的なシンボルとしての高塔があるが、ほとんどの場合において高所から眺めるということはできず、ある意味において、地を見下ろす、あるいは見上げられるという点において、一種の権威をあらわすものであったと言えるかもしれない。 山や丘の斜面を利用した料理屋や、高台での花見など、自然の地形を利用した楽しみ方はあったのだろうが、人工的な建築物に関しては、その限りではなかった。 現代でも、高所からの眺めは、人々を惹きつける。人々の娯楽への欲求は、昔も今も変わることなく、ただ技術の進歩により、仕掛けが複雑化しているだけのように思われる。


眺望閣
通称”ミナミの5階”と呼ばれた「眺望閣」。屋上展望台から市街地や大阪湾が一望に見渡せた。 凌雲閣
通称”北の9階”と呼ばれた「凌雲閣」。「眺望閣」より10mほど高かった。

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